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無言清掃がコミュニケーションを貧しくする?

普段あまりテレビを観ないのだが,何とはなしに付けた朝の情報番組で興味深い特集を組んでいたので,それについて考えたい。

何の特集をやっていたかというと,「無言清掃」と呼ばれるものだ。そもそも無言清掃とは何かというと,読んで字のごとくただひたすら無言で掃除をすることである。今から40年ほど前に長野県の小中学校で推進されていた取り組みで,掃除開始前に瞑想を行い,15~20分間無言で掃除をし,また瞑想をする,という流れである。この無言清掃は全国的に広まりつつあるらしい。

そもそも無言清掃というものは元々禅寺の修行として行われていたもので,己と向き合い嫌なことから逃げない心を養うことを目的にしている。これらを学校でも適用し,自分自身と向き合うことで,どうしたらより良い掃除ができるのか,ということも考えるようになるそうだ。また,無言清掃による教育的意味を掘り下げると,協調性の醸成(決められた時間内に掃除を終わらせる必要があるため,仲間との共同性が養われる),労働を知る(働くことの意味を知る),公共心の育成(学校清掃により公衆道徳を養う),そして学校を綺麗にする心を磨く,といったことが狙いらしい。つまり,無言清掃は教育課程に位置付けられる目的を持った活動であるとのことである。

ただ,本当に無言で清掃する必要があるのか,と個人的には感じる。困難に立ち向かう心を養うことは大変重要なことであるが,困難は人によって様々であるし,立ち向かうことが正しいとは限らないではないか。立ち向かった結果,仲間外れとなって,もし自ら命を絶つということがあるとするならば,そこに真の教育的意味はあるのか。また,LINEなどのSNSの普及で,国民のコミュニケーション能力(話す,聞く能力)が低下している。こうした無言での活動は,その能力の向上にどのくらい寄与しているのかと疑問に思う。実際に話す(自分の思っていることを言語化する)方が,その能力は上がるんじゃないのかなと思う。先ほど挙げた教育的意味についても同様である。他に代用できる活動はないのか。そもそも心を磨くと,人生においてどういった良いことがあるのか。無言清掃を経て社会人となった者は皆聖人君子で罪を犯さない者ばかりなのだろうか。これについて,教師は明確な答えを持っているのだろうか。あと,学習指導要領は満足しているのかな。

今後も注視していきたい。